「グラフィックデザインの『呪い』について」

半年前のブログを書くのもどうかと思ったのですが、最近このイベントのことを思い出したので備忘録的に。
3月23日、「グラフィックデザインの『呪い』について」というトークイベントに行ってきました。出演は東京ピストル加藤賢策さん、グラフィックデザイナーの中野豪雄さん、司会は建築家の伊藤暁さん。
この「呪い」というのは簡単に言ってしまうと、一見自由にデザインされているかのように見えるグラフィックデザイナーにもある種の呪縛のようなものがある、といった話。それは、時代背景的な物であったり、自らの出自の問題であったりと、人によって違うのだが、この日の話では広義の「グリッド」になぜ束縛されるのか、という話に収斂していった。
いや、グリッドというとちょっと単純化しすぎで、「背景にある見えないシステムまで美しく(面白く)作らなければならないという欲望」みたいな話だったと記憶している。
そして、この「呪い」から、中野さんは一方で反時代的だとは思いつつも、あえて逃れようとせず、正面から受け止めることで新しいデザインができるのではないか、と話していて、これは、たしかに彼のデザインを見るとなんとなく理解できるように思う。また、加藤さんは、「東京ピストル」という人を食ってかかったようなネーミングからもわかるように、「あなたたちも実はある種の呪縛にとらわれているんだよ」と、人が普段は気づいていない「呪い」を可視化し、解放するようにデザインしている、といった話だったと思う。この辺りは少し記憶もあいまいなので、詳細はご勘弁を。

さて、で、どうしてぼくが今更ながらこの話を思い出したかというと、この「グリッド」という点から考えてみると、建築と本という一見似て非なるものが、非常に似ていると思ったからだ。ぼくは、そもそも建築出身で最近は本も作っているのだけれど、深く知れば知る程このふたつは驚く程似ている。
それは、ごく単純なことで、同じ平面が積層され、それが表層によってラッピングされるという構造が似ているのだ。
どちらも同じ平面を反復するという構造上、グリッドから完全に逃れることは難しい。もちろん、同じ平面を反復しなくても両方とも作れないことはない。ただ、建築は重力やコストという制約がある以上、ちょっとやそっとじゃこの前提は動かない。また、本は建築と違い、重力もなく、コストもまあデザインする時に大変なぐらいなので、全てのページを違う組版にできなくはない。しかし、恐ろしく可読性の乏しいものになってしまうだろう。
そして、このグリッドに束縛された中身の部分とは別に、建築にはファサードが、本にはカバーがかけられる。ここは表層的な部分でコマーシャリズムとも結びつく。また、ファサードもカバーも中身とは切り離されているので、グリッドの物理的な制約はほぼない(建築はなくはない。とはいえ風雨をしのぐという観点からみれば、内部とは別に外装をもうけないほうが難しいだろう)。だから、本来であればファサードもカバーも中身とは関係のないものを作ることも可能だ。しかし、本は文字情報であり、商品でもあるという性質がある。だからカバーでその中身を想起させ、売らなければならない。そう考えると中身と全く無関係に作って良いとはいいにくい。他方、建築は本に比べると商品という側面が少ないため、まあいいんじゃないかという気もするが、通常そうは思われていない。
さらに言えば、本のノンブルや柱は、全く同じ位置で全ページ貫かれており、内容というよりも機能的なものなので、設備や階段のシャフトを思わせる。


ともかく、このように作り手から見ると本と建築は良く似ているのだ。
どちらも出来上がってしまえばそのグリッドは見えない。しかし、反復するという性質上、それから逃れることはできないし、それどころかグリッドを考えることは未だ建築を、そして本を考える本質のひとつだと思う。
だから、ここでの結論は、ぼくこそこの呪縛にとらわれているな、という話。