HOUSE VISION 2(2016)


残すところあと二日なので、終わる前に感想を。ただ、単なる感想もあれなので順位をつけました。この5つは必見。


1)「冷涼珈琲店ーー煎」 AGF×長谷川豪
基礎を兼ねている(だろう)大きなベンチの上に檜の丸柱が一直線に並び、その上をコーヒー豆の豆袋を想起させる麻布が掛けられただけのとても単純な建物。ともかく会場は猛烈に暑いので、会場の中央にあって、麻布で影をつくり、風でふわふわと揺れるこの建物は涼しげで外から見ているだけでも気持ちいい。もちろん、実際に中に入っても、麻布は外を歩く人の顔が隠れるちょうどいい高さに設定されており、外部に開放されつつもふんわりと包まれた大変気持ちのよい空間になっている。
ともかく、この建物がいいのは、暑いこの季節の屋外展示という、このプログラムと敷地に正面から答えている所。ここでしかできないことをきちんとデザインし表現として結実させている。


2)「賃貸空間タワー」大東建託×藤本壮介
中央に谷状の外部空間を持った賃貸住宅。いわゆるシェアハウスとは違うという触込みだが、風呂、キッチンダイニング、ライブラリーなどを共同にすることで、大きく贅沢な空間としているという点は基本的に普通のシェアハウスと同じ。ただ、それらの空間同士を一度切り離し、谷状の外部空間で連結させるという空間の配列の部分を刷新している。図式としては森山邸の立体集合版にも見える。
この建物が素晴らしい点は、HOUSE VISIONという屋外で建築家のパビリオンが並ぶこの展覧会において、建築家がなにをするべきかということを完璧に理解し表現している所だろう。遠く離れた場所からでもアイコンとして機能し、ともかく一度は登ってみたいと誰にも思わせる。実際にはその半分も登ることはできないし、内部空間の大半はドアがついているだけで中は見れないハリボテではあるのだけれど、それも法規的な問題(二階以上の木造建築物は被覆しないといけないが、この建物は3階以上に外からは見えるけれど、上部は単なる装飾なので法的には2階だてになっている)と考えるととても合理的な判断に思える。そもそも、もしこの建物がなかったらHOUSE VISION 2という展覧会自体がとても寂しいものになっていただろう。また、前回のHOUSE VISION 1で模型を展示していた地域社会圏モデルにプログラム的にはとても近いのだけれど、それすらも飲み込み、自分のものにしていく豪腕さは凄い。実際にモノを展示するという強さをまざまざと見せつけられた。ただ、前回の地域社会権モデルは1/5だったので、設計者の山本さん、末光さん、仲さんは気の毒な気もするが…。


3)「吉野杉の家」Airbnb×長谷川豪
吉野杉で有名な吉野町に建てられる宿泊施設を一度パビリオンとして東京の会場で展示し、会期終了後分解し、トラックで移設するというもの。基本的にすべて「木」だけでつくられており、実際の敷地では川と一体になるだろう大きな縁側、頭を少しかしげないと歩けないぐらいに抑えられた、ただ寝転ぶと包まれたような安心感のある2階の空間など、一見、単純だけど、どこを取ってもとてもきっちりつくられている。特に寸法は厳密。ひとつの建築物としてみると、この建物が一番完成度が高いのだけれど、下記2点がどうしても引っかかってしまった。
ひとつ目はどうしようもない部分ではあるのだけれど、川沿いの美しい景色の中に置かれる建物を展覧会の会場で見るという部分にひっかかり、その差をどうしても想像では埋める事はできなかった。そのため、他の建物よりリアルなはずなのに、逆にどこか嘘っぽく感じてしまった。
二つ目もひとつ目と少し関係があるのだけれど、細かいディテールの部分が妙に凝りすぎていて逆にしらけてしまった。壁の木と同じ素材でつくられたコンセントプレートや天井の板がそのまま光る(木目が浮かび上がる)照明に、皮付きの板が貼られたトイレなど、素材やディテールを凝れば凝るほどどこか嘘っぽく見えてしまう。ただ、逆に言えば、スイッチまで木でつくるとか、スマホですべて制御するとか、もっと精度を上げきってもよかったかもしれない。とはいえ、普通に見れば、とてもよくできているのは事実なので、ぜひ移設した先で実際に宿泊してみたい。


4)「凝縮と開放の家」LIXIL×坂茂
水回りを集約させたライフコアと、電動で開閉する巨大なガラス扉がなんといっても特長的で、家の未来というテーマにエンジニアリングとして正面から答えた唯一の展示といってもいいだろう。その点では一番面白かった。特に、軸吊りとスライド式を組み合わせたドアは設計者的には萌える。また、今回住宅特集(2016年8月号+9月号)で水回り特集を担当し、さらに動く水回りの提案をしたのでライフコアは勉強になった。ただ、せっかくなら実際に動かせるほうが良かったし、表面的なデザインとしてもああいうミニマルな方向ではなく、ユーザーが自由に組み合わせたりカスタマイズできたりすうようなラフでタフなデザインの方がコンセプトとは一致したように思う。この辺りは個人的にも継続的に考えていきたい。


5)「内と外の間/家具と部屋の間」TOTOYKK AP×五十嵐淳・藤森泰司
大きな窓のような家具のような部屋がリビングからたくさん突き出した家。こちらも大きなトイレやキッチンや風呂など、水回り空間を居室のように使うという提案でもあるので、その辺りはライフコア同様に興味深かった。ただ、ひとつの家の中に様々な特徴的なスペースがあるというのはとても豊かなことだと思うのだけれど、さすがにリビングが狭すぎる気がするし、家具というのであれば、もうちょっと完成度を上げてつくって欲しかった。もちろん予算あってのことではあるけれど、飛び出る箱をいくつか減らして良かったように思う。


あと、これは誤読かもしれないが、個人的には、伊勢丹と谷尻さんの家が「倉庫に好きなものを並べて適当に住めばいい」というコンセプトに見えて、デザイン的な好みは置いておいて(基本的に趣味として和風は苦手なので)いいと思った。
他はどれも厳しいというのが正直な所。特にデジタル系は見ていてつらい。永山さんとパナソニックは永遠に白い壁を見るだけだし、柴田さんとヤマトにいたっては冷蔵庫のパネルをデザインしているだけなので建物をつくる必要すら感じない。勝手なことをいうと、この辺りの予算を五十嵐さんに持っていきたかった。あと、凸版印刷原研哉の木目の家は、印刷がメインの展示で解像度が荒いというのは致命的ではないだろうか。

とはいえ、LIXILのようなガチの技術的な提案もあり、長谷川さんのようなひとつの建築物として完成度の高い作品もあり、藤本さんのアイコン建築もあり、上記に挙げた5つの提案は素直に楽しめるはず。特に、自分がそれぞれのブースの設計者だったらどうするか?というのをリアルに想像しながら展示を見ると十二分に楽しめる展覧会だと思う。もうあと2日しかないので夏の最後にぜひ!

ほとんど同じなのに見たことがない世界ーー大宮前体育館について

メディアで発表された建築物も含め、2014年に見た建築物の中では青木淳による大宮前体育館が最も心が動かされた建築だった。ただ、大宮前体育館ほど評価が二分する作品も珍しく、周囲の建築家に色々と話を聞いてみても、ある人は駄作で、ある人は重要な建築だという。しかも面倒なことに、その理由を聞いてみてもどちらも釈然としないし、かくいうぼくもうまく説明できた試しがない。そこで、ここでは正面から書くのを諦め、最初は旅行記という形で大きく遠回りしつつ、最後に大宮前に戻ってくるという形でなんとか大宮前の可能性について少しでも触れられればと思う。



青森県立美術館
昨年(2014年)の6月、青森に家族旅行に行ってきた。青木淳設計の青森県立美術館西沢立衛設計の十和田市現代美術館を見るのがその目的だったのだけど、いうまでもなく、ふたつともとても素晴らしい建築だった。

まず見たのは青森県立美術館。建物は周囲は山に囲まれているがスコーンとひらけた場所に山を背にして建っている。駅からは遠いため駐車場からアプローチするのだけれど、柵や塀がなく建物もある意味とてもそっけない。そのため、美術館特有のもってまわった所がなく、周囲のスコーンとした空気は、もともとあったというだけではなくて、この建築ができたことも大きいのではないかと想像する。
さらに近づくと、巨大なゆるいカーブを描いた壁の上に、これまた巨大な庇が数十メートルに亘って伸びていて、美術館というより巨大な倉庫の搬入口のような不思議な場所に辿り着く。これが美術館のエントランス。ともかく全体的にどこかそっけなく、それでいてそのそっけなさこそが気持ちいいと思えるようなそういう作り方をしているというのが、この時点ですでに感じられるようになっている。

さて、ここまではよくある青森県美の説明なのだけど、ここから先は竣工して10年ということで実際に見た建築は写真や文章で想像したものとは少し違うものだった。
まず外壁。当初の設計では、レンガという、素材感が強いものをあえて白く塗り潰し、さらにはその端を斜めにカットして厚みを消すことで、素材や「モノ」を活かして設計するという方法でも、抽象的な面を作るという方法でもない、素材やモノとしての強さは残しながらその意味だけを漂白するという不思議な表面を作っていたと思う。それが10年経った今、経年変化によって繋ぎ目がはっきりと現れ、そのレンガの壁(の一部)がコンクリートで作られたフェイクであることが完全に分かるようになってしまっている。さらに内部に入ると、たたきの床と壁として作られた土の素材は長年の経年変化と補修により、内装吹き付け材のような質感にしか見えなくなっていた。そして、巨大に引き延ばされたアーチ窓とパーケットフロアが特徴的なコミュニティホールは、その後のセリーヌなどのガチな試み(テーブルにでも使えるような巨大なオークの無垢材をヘリンボーンに、グリーンオニキスをプリントのように扱っている)を見たあとではどうしても霞んで見える。
という訳で、基本的にはとても感動したのだけれど、と同時に、どうも嘘が明らかになった後を見たような妙な気持ちになりつつ青森県美を後にした。



十和田市現代美術館
次に見たのは十和田市現代美術館。こちらは市役所通りという街のメインストリートに建っている。様々な大きさの白い箱を適当に並べるという方法で作られており、言葉で書くとこちらもそっけない感じがするのだけれど、実際にその場に建つと、それぞれの箱の大きさ、向き、開口の取り方(一部の箱は一面だけガラスになっていて、中から外が見えると同時に、外からも中の作品が見え、巨大なショーケースのようになっている)等々、とても計算して作られていることが分かる。
そして中に入るとその計算はさらに緻密さを増す。大小の箱は基本的にひとつの作品だけを展示する専用の展示室であり、それらをガラスの廊下で繋ぐという、美術館の設計においてこれまで見た事がないほど明快かつ秀逸な解答がなされている。箱の大きさが違うのは展示作品がそれぞれ違うからであり、箱同士はくっつかずにばらばらに置かれているので、それぞれの展示室は独立性が高く、互いに干渉されることがない。しかもある展示室から次の展示室に行くには一度廊下に出なければならないので、その独立性はほぼ完璧な形で担保されている。これなら通常の美術館のようにA→B→C→DではなくA→D→C→Bと順路に束縛されずに好きな作品を好きな順序で見に行くことが出来るし、休憩も離脱も好きな時にできる。また、大きな箱を展示壁で分割するという従来の方法では、どうしても美術館が絶対的なもので作品や展示はそれに従うもの、というかたちでヒエラルキーがはっきりとしてしまうのだけれど、いってみれば十和田では展示室自体を独立した建築物として作っているので、美術館が主で作品が従というかたちにはなっておらず、作品側、作家側に立って考えてみると、これほどまでに完全な状態が与えられた展示室はなかなかないんじゃないかと思う。
このように、十和田は、箱を適当に並べるというたったひとつのルールだけで、単体の美術館であることを超えて美術館の形式そのものを更新するほど、とてもとても良く出来た美術館だったのだけれど、どこかでこれもやはり嘘をつかれているというか、言い方は悪いけれど、良く出来た解答を得るために問題自体を少し歪めているように感じたのだ。



奈義町現代美術館から再び十和田、青森へ
ひとつの展示物に対してひとつの建築。実はこの形式自体にはいくつかの先例がある。その代表的なもののひとつが磯崎新設計の奈義町現代美術館だろう。奈義では荒川修作 + マドリン・ギンズ、岡崎和郎、宮脇愛子という3組の作家の作品が常設で展示されている。それは単に常に置いてあるというものではなく、建築も作品もこの美術館専用に作られたもので、実際に荒川+ギンズは円柱、岡崎は三日月、宮脇は四角と展示室の形態もそれぞれ違い、さらに仕上げや光の入れ方等々、すべてが違う。
さて、ここで再び十和田に戻ってみる。十和田もすべてではないけれどその大半は常設展示である。そして奈義と同様に作品は十和田専用につくられている。しかしながら奈義とは違い十和田はそれぞれの展示室にはその大きさ以外にほぼ差はない。壁や天井はすべて白くペイントされており、床もすべてコンクリート。箱という形状もどれも同じ。
奈義を経た後に考えてみれば、これはとても不思議なことだ。
それぞれ作家も作品も違うのだから、その部屋ごとに違ったものになっていたほうが不思議はない。にも関わらず十和田ではすべての展示室がたった1種類の素材、色、形状になっている。これは暗黙のうちに現代美術館はそういうものだと疑わなかった結果のように見える。ここに嘘というか問題自体を歪めていると感じる理由がある。なぜなら、仮に全ての部屋の仕上げや形状を違うもので作ってしまうと、大きな作品も小さな作品もヒエラルキーがなく等価に並べるというこの建築の重要な部分と齟齬をおこす。そして、ヒエラルキーのない関係を作るために個々の部屋の自由を束縛しているのだとすれば、それは本末転倒であり、従来の意味での美術館と同様に美術館が主で作品が従の関係自体は結局変わらないままではないかと思うのだ。

ここでさらに青森県美に戻ってみる。確かに青森県美では、経年変化によって実験的な試みのいくつかはフェイクだとひと目で分かるようになってしまっていた。しかし、そもそも青森県美では当初からフェイクであること(正確には表面であること)自体は隠されてはいなかった。というよりも、わざとフェイクであることを露呈させるような作り方になっていた。構造体の外側と内側にある二枚の表面。それが外壁と内壁。構造からは分離しているのだから仕上げは基本的に自由に振る舞う。そういう作り方になっていた。

これは十和田とは全く違う作られ方である。さっきは書かなかったけれど、青森県美も上向きの土の凸凹と下向きの白い凸凹を噛み合わせるという有名なあるひとつのルールによって作られている。それによって様々な種類の展示室を用意している。しかしながら、青森県美では、ルールは守られていながらも、個々の部屋は、色や素材や形状は、そのルールを強化するようには設計されてはいない。むしろルール違反スレスレまで、もうちょっとで逸脱してしまうのではないかというぎりぎりの所まで、部分は勝手気ままに振る舞っている。ここが十和田とは決定的に違う。そして、この一点において、ほとんど非の打ちようがないぐらい良く出来ているようにみえる十和田より、嘘が露呈してしまっている青森県美の方に賭けたいと思うのだ。



外の世界へ、別の世界へドアをあけること
青森県美に対するよくある批判に、美術作品より前に建築が美術作品のように主張しすぎている、というものがある。確かに見ようによっては、青森県美はその隅々まで過剰にデザインされているし、それを隠そうともしていない。ただ、そういった批判が出るのは無意識のうちに、建築はあくまでナカミを入れる器であり、建築は無色の透明な容器であるべきだという先入観があるからではないか。
しかし、原理的に無色の容器などは存在しない。完全に透明な素材も存在しない。にも関わらずそれを求めてしまうのは、設計者の恣意的なデザインを排除したい、という欲望の間違った現れだろう。
そしてこの欲望は一見正しそうに見えるが故に長年にわたって肥大化し、とても強力にぼくたちの想像力を規定してしまっていると思っている。多分最初はバブル時代のポストモダン建築への反動だろう。90年代になると、まずはその欲望はミニマリズムの流行をこの世界にもたらした。派手で恣意的なデザインは嫌悪の対象になり、ユーザーの為というの名の下、設計者の恣意的なデザインを排除する試みが様々な形で模索されるようになっていった。 さらに、姉歯事件や箱物公共事業は建築への不信感に繋がり、まるで身の潔白を証明するかのように、建築は白く透明になっていった。ヒエラルキーがなくフラットな建築も同じ流れだろう。そして昨今、ついにその欲望は、コミュニティデザインやFABなど建築を建てないという所にまで行き着きついたのではないか。

大きいばかりで無駄な建築はいらない、余計な事をして欲しくないししたくない、というのはよく分かる。人口が縮小する局面では特にそうだろう。しかしながら、その欲望が建築を建てないという所にまで行き着いたのだとすれば意味がない。それでは、現在すでに建っている建築はどれだけ無駄でも、今建っているというただそれだけで肯定しなければならなくなってしまう。なにより、無色の容器や完全に透明な器が存在しないのと同じように、完全に恣意的なデザインを排除した建築も作る事はできない。せいぜいある瞬間の人々の欲望の平均値を取ったものにしかならない。しかもこの二つの方向は今ある世界を変える事はなく再強化する。やはりどこかで間違っている。

だから原っぱといった時に重要なのは、それが設計者によって恣意的に作られたものでは「ない」からでも、暑苦しく「ない」からでもなくて、原っぱという場の上で全く違う新しい遊びが次々に発見されるからであり、ルールが完全に守られていながらルール違反スレスレまで自由に振る舞っているからであり、多分それは、原理的に敷地の中だけしか設計できないにも関わらずーーこれはあらゆる建築に共通する絶対的なルール、いわばメタルールであるーー、そのルールをぎりぎりまで逸脱しようという試み、要は、なんとかその敷地の外の世界を変えようという試みだったからではないか。
そして、とても回りくどくなってしまったけれど、大宮前体育館に感動したのはこの一点につきる。

個人的には青森に比べ大宮前は内部の空間についてはそれほど上手くいっているとは思えない。それは恣意的なデザインを排除し、完成した世界を脱臼するという従来から説明されている原っぱの手法でつくられているように見えるから。しかし、仮にその内部ではなく、敷地の外こそをよりよいものにしたかったのだとすれば腑に落ちる。だからこそ評価が割れてしまうのではないか。実際、青木淳自身も荻窪の街自体が大宮前の参照先だと書いている。
原っぱと遊園地という言葉はとても分かりやすい。設計されていないものと設計されたもの。設計者の恣意的なデザインを排除することが期待される現状の中で、遊園地ではなく原っぱに共感するのはある意味とてもよく分かる。事実ぼく自身にもそういう感覚はある。ただ上述したように恣意的なデザインの排除という方向は現状に適応した数多ある試みのひとつでしかなく現状を変えることはできないだろう。それにそもそも人は原っぱに不自由を感じることもあれば、遊園地の中ででも勝手な遊び方を発見し、自由に振る舞う事も出来るのだから。本当はもう一度青森にまで戻って問いを立て直すべきだろう。あそこにはまだ無数の可能性が詰まっている。しかし長くなりすぎた。

今、目の前にある世界をそのままそっくり一度は引き受けた上で、そして目の前にある見慣れたものだけを使って別の世界を見せる事。多分大宮前体育館でやろうとしたことはそういう試みではなかったか。

鶴ヶ島プロジェクトシンポジウム2

追記。
どうも、書かないとそれ自体がメタメッセージになっている気がしたので、鶴ヶ島プロジェクトについての続編。


鶴ヶ島プロジェクトは、東洋大学藤村龍至研究室で今年行われた設計課題であり、具体的には東洋大学のある鶴ヶ島の小学校の建て替え計画である。そして、鶴ヶ島プロジェクトでは、学生は単純に設計し互いに競い合うという方法はとっていない。ここでは学生を
1)作家軸。
2)技術者軸。
3)プランナー軸。
といった三つのグループに分け、それぞれの役割を演じながら設計を進めている。この3つの軸はそれぞれ、具体的な現実の職種に対応してあり、
1)アトリエ系の建築家。
2)組織設計事務所やゼネコンの設計部。
3)デベロッパー等。
だと考えれば良い。さらに、二週間に一回といった割合でワークショップを開き、実際の市民の声を設計に取り入れることで、より具体的かつ密度の高い設計を行っている。


さて、その鶴ヶ島プロジェクトだが、個人的にやはり一番重要だと思ったのは、普段なら手をつけられない、設計の余条件の部分までをも、設計のプロセスの中に取り込んでいる点にある。
また、3つに分けているというのも秀逸だ。なぜ、この3つに分けているかというと、デベロッパーやプランナーが要項をまとめ、組織事務所やゼネコンがほとんどの設計をおこない、その表層のみをアトリエ系の建築家が設計するという、現実に今、起こっているこの図式そのものに介入するためのひとつの実験だからだろう。

そして、小学校という規模も重要である。
この手の「プロセス自体を設計する」といった手法についてよくある批判に、他の規模では使えないではないか、といったものがある。しかし、これはよく考えればそもそも変な話だ。ある一定の規模で十分に機能するのであれば、実際に設計する際には全く問題ないはずで、他の規模の場合には、他の方法を考えれば良い。藤村氏の話では実際にワークショップを進めてみて、小学校という規模では有効に使えるという実感を得たそうだ。
また、最後の工藤さんのコメントでも、この小学校の重要性については発言されていた。工藤さんはシーラカンスという設計事務所で、小学校の新しいプロトタイプを設計し続けた人のひとりである。実際に97年に設計した幕張に建つ千葉市立打瀬小学校はオープンスクールの先駆けだ。
その工藤さんによると、地域のコミュニティの核は学校にたくさんあり、学校をつくることはまちをつくることである、ということだった。実際、公共施設の37%が学校施設であり、個人的な実感としても、こどもがいれば嫌でも地域に参加しなくてはならなくなるし、被災地の中でぽつんと残された校舎をみても学校が重要だというのはその通りだろうと思う。
ただ、ここから先が重要なのだが、実は単純に良い建物を作ればそれで解決するという話ではない。なぜなら池田小学校のような事件は学校だけでは解決しないからである。学校をオープンにするというのは、どうしてもセキュリティという問題と対立してしまう。しかしながら、塀に囲まれた学校を作ってしまうと地域からは孤立する。しかも、いったん侵入者に入られてしまうと外からは見えないためにより危険になる可能性もある。だから、建物が実際に建った後の使い方も含め、オープンなプロセスで地域のひとと一緒に考えることができれば、オープンとセキュリティといった二項対立に陥ることなく、第三の道を設計できるかもしれない。ようは使い方も含めて一緒に考えようよ、ということであり、この方法は根本さんの話と極めて近い。というかほぼ同じ話を具体的な設計の形で取り組んでいると言える。

最後に、藤村氏は鶴ヶ島の新しい点について、3つあげていた。
まず、第一に単体の設計からスタートしているということ。
第二にオープンなプロセスであること。
第三にゴールそのものを一緒に探求していること。

設計した後にコメントを求めるのではなく、市民を設計のプロセスの中に取りこんでいくというこの手法は、画期的だし教育実験としても非常に面白い(だからこそ、いろいろと学生からは不満があったようだが、それは新しい試みだからこそだろう)。ただ、ぼく自身は昨日も書いたように、実際の案についてはまだ具体的に見れていないので、12月のヒカリエの展示を楽しみにしたいと思う。

鶴ヶ島プロジェクトシンポジウム

先週の9月14日、鶴ヶ島プロジェクトシンポジウム「公共建築から鶴ヶ島の将来像を考える」に行ってきました。


市役所の一階ロビーで、市長が登壇して行われる建築のシンポジウムというのは初めての経験。
パネリストは鶴ヶ島市長の藤縄善朗さん、経済学者の根本祐二さん、そして建築家の工藤和美さんと藤村龍至さんの4人。全体は、最初に根本さんのプレゼンがあり、その後、藤村さんのほうから「鶴ヶ島プロジェクト」のプレゼンがあって、さらに市長、工藤さんからコメントがあって最後に質疑応答といった内容。


ともかく、この日はなんといっても最初の根本さんのプレゼンが素晴らしかった。

根本さんの話をざっくりと要約すると、
橋や道路、そして公共の建築物といったインフラは、ある時期に集中して建てられており、しかも現在耐用年数に近づいているため、今後大規模な修繕や補修、そして建て替えが必要になる。しかも、今後は急速に高齢化し、さらに昔と違って金もない……さて、ではどうすれば、、という極めて普遍的かつ今後の日本については重要なもの。
実際の事例も紹介しながら話していくので、説得力があるし、なにより面白い。
特に図書館の話はなるほどーと唸ってしまったので紹介すると、


図書館の運営費は一冊貸し出すにつき1000円かかる。
普通に考えてこれは随分高い。だって、今、ツタヤのDVDのレンタルは旧作なんて1週間100円。GEOならなんと80円。という訳で、この金額の話をすると、大抵はそこまで高いなら図書館自体そもそもいらないか、、って話になるそうだ。
ただ、これは建物から本まで、すべて揃えたら、という話で、建物を既存のものを使用したり、本もどこかから譲り受けたりすれば、金額はグラデーションで下がっていく。とはいえ、作るからにはゼロになることはなく、一冊あたり500円あたりがだいたい底値。しかも最初に書いた1000円のうち、本の購入費は10%ほど。これを聞くと確かに全国津々浦々にまで図書館が必要なのかと思ってしまう。
そもそも、実際に図書館に行き、ベストセラーの貸し出しの予約数を見ていると(カウンターに貼り出されていたりするのです)100を超えているものもあって、こりゃ買ってくれよ、って本当に思う。根本さんも出版不況の原因のひとつが、この本の貸し出しによるものなんじゃないかと言っていましたが、出版不況が本当に図書館のせいなのかどうかはともかくとして、図書館はある程度民間のサービスに移行するしかないような気がします(最近ツタヤが実際始めてますね)。いや、個人的には図書館は大好きでよく利用……というか入り浸っているので、残して欲しいんですが、まあ仕方なかろうと。


ちょっと話がずれましたが、ここで重要なのは、作るか作らないかという二項対立で考えるのではなく、その間の具体的な対案を出し、さらに周辺の市町村の設備も利用するなどして、もうちょっと上手くマネジメントしていこうよ、という話です。


ともかく、まず、物理的な構築物である以上、すべてのインフラは朽ちる。
そして、公共投資はかつての半分になっている。なぜなら社会保障費が増えてきているのでやむを得ず減らしてるから。
次に、補修ができず、危険なために通行止めになっている橋が現在1900もある。また、古い学校の横に新しい文化ホールが地方でボコボコと建てられる。なぜなら票に結びつくから。
しかし、利用時間や運営の方法を変えるなどすれば、新しく建てるよりは不便にはなるが、本当に必要なものはきちんと手に入れて、しかも道路や上下水道を補修し、メンテナンスしつつ、うまく回せる方法もあるんだよ、という話は聞いていて勇気づけれれました。

また、昔は公共施設のひとりあたりの面積は大きいほうが、良いサービスを受けられる良い市町村だと思われていた。しかし、今後は他の隣接した市町村の施設を共同利用し、一人当たりの面積が小さい市町村のほうが、借金が少なくなり、結果的に良いサービスが受けられるようになるかもしれない、という話にも納得。



そして、肝心の鶴ヶ島プロジェクトに関してですが、、ぼく自身が展覧会をきちんと見れておらず、全容をきちんと把握していないため、ここでは割愛します。すみません。
というより、鶴ヶ島プロジェクトの展覧会はなんと、12月の3日から7日まで、渋谷のヒカリエに巡回してくるのでその時に。
さらに、本日、22日、西武池袋本店別館9階にて、西田亮介さん×藤村龍至さん×速水健朗さんトークイベント 「新しい日本を設計する」〜『日本2.0 思想地図βVOL.3』(ゲンロン)刊行記念が行われるので、鶴ヶ島の話もあるんじゃないかと。こちらもぜひ!


最後に。
これは鶴ヶ島に限ったことではなく、地方、都心、両方に言えることですが、駅前の一等地にはパチンコ屋があって、市役所はバスで行かなければならない不便な場所にあるというのは、場所によってはそろそろ変えてもいいんじゃないですかね。もちろん地価が高騰している時はそれで良かったんだろうけど、縮小して行く段階では、むしろ集中して利便性を上げたほうが周辺との差別化もできるのだし。
特に今回のシンポジウムなどはふらっと来た人が見える環境だともっと良かったと思うので。
ではまた。

東急プラザ  設計 中村拓志

東急プラザ 。ちょっとした事件というぐらい個人的にはびっくりしたのだけど、あまり言及されていないので書く。個人的にはまちがいなく近年の日本の商業建築では最高傑作。特に建築家と呼ばれる人間が作ったものとしては。

しかし、正直に言うと、ぼくも完成予想図を見たときはその良さが分らなかった。さらに言えば、工事中に仮囲いの隙間から特徴的なタイルや鏡面の多面体が見えてきたときでさえ、それほどいいとは思えなかった。…のだが、オープンしたあと、実際にエスカレーターを登り、5階あたりまできた段階でようやくなにが起きてるかを完全に理解し、驚愕した。
要はなにもかもが完璧なでに商業の論理で組み立てられていて、それがあまりに高度なのだ。
順を追って説明すると、まず、この手の都心部の、それも一等地にある商業ビルの場合、1階の賃料が最も高い。それもファサードまで自由にできるとなると、さらに賃料は高くなる。
また、逆に、2階や地下は通常であれば1階よりも賃料が下がるのだが、これを1階のテナントに一緒に貸すことができれば借りた方は3階建ての独自の館として店舗をつくることができるため、やはり賃料は高く設定できる。さらには角地の隅にエスカレーターを持ってきたことによって、3分割にされたテナントは、それぞれがコーナーに建っているようなかたちになるために2面のファサードを持つことができ、これもまた、入るテナントにとっては魅力的な条件になる。
このようにして、地下から2階まではテナントとしてファサードごと貸しだし、エスカレーターやエレベーターといった縦動線以外の共用部分を完全に消し去ることで、最も高い1階の賃料を無駄なく貸すことが出来ている。
しかし、そうすると1階のテナントに入った客は、目的の店を見終わると他のテナントを見ることなくそのまま出ていってしまうために3階より上に客を運ぶことが困難になる。そこで、あの鏡面の多面体でできたエスカレーターが必要になってくるのである。さらに、屋上に魅力的なテラスを設けることによって、いわゆるシャワー効果を生み出している。
また、中間階にもできるだけ窓を開け光を取り入れたり、テラスを設けたりすることで、館全体が明るく開放的な雰囲気になっており、さらに、周りを眺められることで一等地にある条件を最大限に生かしている。
さらにはエスカレーターの登りと下りを揃えることで(これは3層までの一直線のエスカレーターによって実現している(6層ぐるぐる回るのはさすがに無理があるので))、より開放的にしつつ回遊性も持たせたり、プランも単純な積層ではなく、階によって違う雰囲気になるように工夫されていたりと、ともかく思いつくだけでもかなりのアイデアが投入されていて、みていて歯ぎしりする思いだった。これは本当に素晴らしい。
あまりによく出来ていたので、中国とかで全く同じものが出来るんじゃないかと本気で思った。

ともかく屋上のテラスは普通に気持がいいので一度は行ってみてください。

しかし、東急プラザも唐突に出来たものではなく、one表参道の構成を思いっきりバージョンアップしたかたちではあるので、なにごとも一日にしてならずってことですね。

SSDと「コム デ ギャルソンのインテリアデザイン」の続き

7月11日、五十嵐太郎さんに呼んで頂き、SSD(せんだいスクールオブデザイン)でレクチャーをするため仙台まで行ってきました。場所は仙台の倉庫街にある阿部仁史さんのアトリエ。阿部さんのアトリエ自体もやはり倉庫を改装した気持ちのよい空間で、おかげでリラックスして話すことができました。
このレクチャーは「インテリアデザイン」をテーマにしたもので、1回目が鈴木紀慶さん、2回目が飯島直樹さんで、ぼくは3回目で最後の回。だから最初は時代背景的な物を70年代からざっくりと解説しつつ、思想地図β1で書いた「コム デ ギャルソンのインテリアデザイン」をキーノートを使って話しました。実はあの論文自体も当初は東浩紀さんが主催していた研究会で発表したキーノートがベースになっていたので、話していて懐かしかったです。
ただ、あの論文のあと、コム デ ギャルソンは北京、韓国、シンガポールとアジアに次々と大型店を出店し、さらに、昨年は丸の内店、今年はドーバーストリートマーケットギンザがオープン。追い打ちをかけるように4月7日には青山店もリニューアルするなど、実はこの数年でコム デ ギャルソンのインテリアデザインはかなり変化しています。
という訳で、ぼく自身もあの論考の続きを執筆してはいたのですが、中々これといった軸になるアイデアがなく、書きあぐねている所でした。
しかし、一昨日の発表のために色々と資料を読み返していくいうちになんとか核になるアイデアを思いつき、そちらを付け加え、無事、最新作まで話を繋げる事が出来ました。このタイミングで呼んでいただいて助かりましたw。

また、レクチャーの後半は質問時間がたっぷりととられていて、一方的に話すだけではなく、対話することができたので、どういった事に関心があるのかがよく分かり、楽しかったです。具体的には「規制」についての質問が最も多く、これは現代では重要なテーマだなと改めて思いました。
ともかく、参加して頂いたみなさん、ありがとうございました。

最後に。あの論考にはアイデアの元になった本がいくつかあります。受講してくれた人がこちらを読んでくれていると信じつつ、下記にあげておきます。インテリアデザインとは一見関係ない本ばかりですが、現在デザインを勉強しているなら絶対になにかを与えてくれるはずです。


規制についてはなんといってもまずはこの本。アーキテクチャという言葉もここからきています。また規制については、建築関連だと質問の時に少し触れた吉村靖孝さんの「超合法建築図鑑」と、アトリエワンの「メイド・イン・トーキョー」も面白いです。

CODE VERSION2.0

CODE VERSION2.0


現代の日本がどういう時代なのかを知りたければこちらを。新書で読みやすいですし、頭の中をかなりクリアにしてくれるはずです。

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)


多様性が大事なのだということについて、また「複雑ネットワーク」って難しそうな言葉だけど興味あるな、と思った人には、この二冊はすごく読みやすいしおすすめです。

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「みんなの意見」は案外正しい (角川文庫)

「複雑ネットワーク」とは何か―複雑な関係を読み解く新しいアプローチ (ブルーバックス)

「複雑ネットワーク」とは何か―複雑な関係を読み解く新しいアプローチ (ブルーバックス)


ブランドが生存競争しているというアイデアはこの中のミームからきています。

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>


ぼくのコム デ ギャルソンの論考が90年以降になっているなはディヤン・スジックのこの本があるから。89年の青山店まではこちらにまとまっています。絶版ですが図書館などで。

川久保玲とコムデギャルソン

川久保玲とコムデギャルソン


最後はなんといってもこちら。多分いままでで一番時間をかけて読んだ本。いまだに何度読み返しても面白く、また、デザインのためのアイデアにも満ちていて、よくある「無人島にもっていく一冊」ならぼくはこれです。

システムの科学

システムの科学

  • 作者: ハーバート・A.サイモン,稲葉元吉,吉原英樹
  • 出版社/メーカー: パーソナルメディア
  • 発売日: 1999/06/12
  • メディア: 単行本
  • 購入: 17人 クリック: 204回
  • この商品を含むブログ (54件) を見る

SSDハウスレクチャー

ご無沙汰しています、浅子佳英です。
いやはや、さすがにアツくて寝不足気味で参ってます。。

さて、明日11日、仙台スクールオブデザインでレクチャーを行います。
内容は『思想地図β1』に書いた「コム デ ギャルソンのインテリアデザイン」と、
ゼロ年代11人のデザイン作法』に書いた「しろくちいさく透明なセカイ」のふたつ論考を中心に話す予定です。

また、ギャルソンについては、今年は青山本店のリニューアルとドーバーストリートマーケットギンザのオープンがありましたし、ちょうどぼくのほうでもギャルソン論については続きを書いている最中だったので、その辺りも話せればと思っています。
それではぜひ、明日仙台でお会いしましょうー。